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[白黒をつけない議論」についての考察

■古賀 洋吉さんのtweetより

「サンデル先生の授業をちょっとオンラインでみたけど、HBSのディスカッションもだいだいああいう感じ。でもあのディスカッション形式は日本人には理解されないことも多そう。正解がない議論にも慣れていないし、対比から始める議論も「世の中は白黒で議論できない」とか捕らえてしまう人が多そう。
極論の対比から議論を開始する理由は、物事の白黒をつけるためじゃない。全体の地図を描き切って、中間地点の解が全体のどの座標に位置しているか見るため。中間地点から議論を始めると、その意見が全体の座標上のどの位置にあり、なぜそこにあるのかもぼやけてしまう。」


引用ここまで



■私の考えの記録
この方の話の内容はいつも唸らされる。
どうしたらこういう難しくない表現で、明確に的確に、あいまいなモヤモヤしたことを説明できるのだろうか。
感服します。
常々ディスカッションをするときに、なぜわざわざ考えてもいない反対意見を述べる必要があるのかと思っていました。
今まさにここに答えを見つけました。

日本ではあえて言う必要のない反対意見を言うということはよほどの事がない限り、あまりない。
反対意見を言う時は、極端に言えば、反対する考えがある時や、必要がある時だけである。
だから多くの人は、反対意見を出されると、無意識のうちに警戒をしてしまい、反対意見の真意をくみ取る努力をあまりせず、反対の意見に負けないように「議論する」という形になってしまう傾向がある。私を含めて、議論とは「言葉の喧嘩」という潜在意識があるように見受けられる。意見の交換という様子とはかけ離れているようにも見える。
だから「反対意見」が出た段階で、穏やかなムードが壊れる可能性が多い。
よって、日本人は、「あえて言う必要のない反対意見」を言わないことを好む傾向があるのではないかと推測しました。

日本人はよく「グレーゾーン」が好きだと言われます。
それは、議論では「白黒をつける」ためにあると考えるからではないでしょうか。「白黒をつける」という意味は、勝つか負けるかを意味しており、そのために議論をするのだと考えがちです。ですから、あえて勝ち負けをハッキリさせたくないときは「グレー」を選ぶのです。生来は白黒をきっちりとつけるのを好むパーソナリティーだと私は考えます。いつもそのように正誤、つまり常に正解を求めるという暮らしぶり、それでは疲れますので、あえて必要のない時はグレーを選ぶのです。

それに関連して思うのが、日本の国語教育では「正解の文意をくみ取る」という訓練を受けます。
一方、アメリカの友人の書く短文のような詩のような文章は、日本人の感覚でいう「オチ」のようなものがなく、これで終わり?という終わり方をしていて、結局、私はその文のなかで何を言いたいのかを見つけられないという事が多々あるのです。
もし「答えのない議論、考え」をベースにしていると考えれば、それを読んだひと自身が自分の考えを発展させて行き、自分なりの考えをまとめる。読み手がそこから、何を感じたのか? それが重要であり、またそれが考える癖をつけさせ、自分の中に自分自身の考えを育てていくのだと思いました。

以上のような感覚を身につけないかぎり、罪悪感を感じずに、あるいは自分の心に嘘をつかずに、自分の意見を積極的に述べるというのはとてつもなく難しい事だと思います。「自分の意見や考え」を述べるという事、あるいは、「白黒をつけるために言っているのではない」という事、そういう思いを身の隅々に染み込ますというのは、今回の記事を読んでとても大事なことだと認識しました。それによって、反対意見を言う事は決して無礼なことや喧嘩ではないという考え方が出来きるようになり、牽いては、相手の反対意見をも冷静に受け入れられることが出来るようになる。

以上が今回の記事を読んで持つ事ができた私の新しい考えです。


【2010/09/30 12:06】 | 英語に関する雑記 | コメント(0) | page top↑| 編集
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